第51回「越中・井波―わが先祖の地(四)」
引き続き池波の随筆「越中・井波」の原文と備考をお読み頂きたい。
〔原文〕堂々たる入母屋造りの山門、大屋根の本堂、太子堂など、その大伽藍のすべてに、「隙間もないほどに……」さまざまな木彫がほどこされている。さすがに井波の大寺院だ。私の祖先も、この寺の改築には動員されたのではあるまいか。
〔備考〕瑞泉寺は天正9年(1581)、佐々 成政に焼討されたが、以後155年の年月をかけて、江戸時代の元文元年(1736)に復興された。しかし宝暦12年(1762)、強風下の町家の失火に類焼してしまう。復興は弘化4年(1847)で、85年の歳月を要した。ところが明治12年(1879)、太子堂から出火し、山門、勅使門、台所を除き、焼失する。その後55年の努力を重ね、昭和9年(1934)、瑞泉寺は三度、復興を成し遂げる。
次にこの様な復興は宮大工の活躍なしに語れないが、その概要を述べれば、以下の通りである。
①天正の戦火からの復興――慶長元年(1596)、砺波・射水・婦負郡の領主・前田利 長から拝領した井波の土地に瑞泉寺の仮本堂が建立された。棟梁は板倉屋四郎右衛門であった。また文禄3年(1594)、利長の工兵隊の大工10人も井波に土地を拝領したが、彼らは子孫も含め瑞泉寺の復興に貢献してゆく。しかしその後瑞泉寺が教如上人の東本願寺へ転派したので、本堂の建立は大変遅れ、万治2年(1659)となった。棟梁は越前・笠井清右衛門であった。次いで元禄10年(1697)、大門の上棟式が行われる。棟梁は金沢の山上新蔵であった。その後本堂の修復工事がいろいろと行われたが、元文元年(1736)、最後の鐘楼堂が竣工した。棟梁は山上新蔵の弟子・金屋岩屋村・孫四郎であった。
②宝暦の大火からの復興――安永3年(1774)、本堂の上棟式が行われた。棟梁は京の笠井若狭、名代は拝 領地 大工の子孫・柴田清右衛門であった。そして彼と茶屋甚作、同仁左衛門、田村七左衛門の拝領地大工が初めて本堂の彫刻を行った。次に寛政2年(1790)、鐘楼堂の上棟が行われる。棟梁は京の柴田新八郎、下棟梁は拝領地大工の田村七左衛門であった。次に長谷川平蔵が活躍していた寛政4年(1792)、現存する勅使門の柱が立った。棟梁は柴田清右衛門で、田村七左衛門が門扉両脇の「獅子の子落し」を彫っている。次に文化6年(1809)、現存する大門の上棟式が行われた。棟梁は拝領地大工の2代目松井角平・恒徳で、京の前川三四郎が「雲水一匹龍」の唐 狭間を彫っている。最後に弘化4年(1847)、親鸞上人の尊敬された聖徳太子を祭る太子堂が初めて建立される。棟梁は3代目松井角平・恒久で、江戸の清水喜 助も「鶴亀」の手挟 ( 御拝柱の内側の上部を飾る彫物)2枚を寄進している。
③明治の大火からの復興――明治18年(1885)、本堂が上棟される。棟梁は4代目松井角平・恒 広であった。次に大正7年(1918)、太子堂の落慶法要が行われる。棟梁は5代目松井角平・恒信、副棟梁は拝領地大工の東城清八、南保新八郎であった。大島五作と加茂辰蔵が手挟「桐に鳳凰」を各々1枚、田村与八郎と横山作太郎が手挟「波に龍」を各々1枚彫っている。次に昭和7年(1932)、瑞泉寺婦人部の力により鐘楼堂が再建される。棟梁は6代目松井角平・恒茂であった。最後に昭和9年(1934)、後小松天皇500回忌法要に向けて瑞泉会館が完成する。棟梁は同じく松井角平・恒茂であった。
以上であるが、そこで改めて冒頭の原文を読んでみると、池波は初めて見る瑞泉寺の建物の壮大さと彫刻の精密さに感心した様に思える。しかしそれだけではあるまい。その建物や彫刻を作った、何代にも渡る多くの無名の大工達、木を切り、庄川に流し、井波に運んだ、何代にも渡る多くの無名の職人達、瑞泉寺に寄附をした何代にも渡る多くの無名の信徒達に、池波は深い感動を覚えたに違いない。そうでなければ、私の先祖もこの寺の改築に動員されたのではあるまいかという池波の言葉は、理解できないのではないかと思われる。
〔原文〕昼食は、瑞泉寺の客間で精進料理の馳走になる。給仕をしてくれたのは、この町で茶の湯を習っている女子高生たちであった。茶の湯の先生が、「実習をさせたいので」と、申し出て下すったのだそうな。いずれも清らかな少女たちで、その給仕ぶりはさすがに美しい。おもいもかけぬ目の保養をしてしまった。
〔備考〕先祖が改築に携わった瑞泉寺で、池波に伝統的な精進料理を昼食として召し上ってもらおうとする配慮は、井波ならではのものと感じられる。また初めて先祖の地・井波を訪問した池波を歓迎し、茶の湯の実習という負担のない形で、昼食の給仕をして差し上げるという配慮も、井波ならではのものと感じられる。(続く)