第49回「越中・井波―わが先祖の地(弐)」
今回も随筆「越中・井波」の要所の原文と備考をお読み頂きたい。
〔原文〕この日の夜。私は、日本でも屈指の銘木店を経営している野原さんの案内で、利賀の山中にある野原さんの実家へ泊めていただいた。岩倉さんと野原さんは、農学校時代からの親友だそうな。(中略)
ここは以前に旅館だったそうで、いまは「尾の上」という仕出し屋になっている。岩魚の刺身、蕪の酢の物、海苔ワサビ、山芋、みんな旨かったが、とりわけて山芋つなぎの手打ち蕎麦は、私がはじめて口にするものだった。(中略)口をつけるまでは1杯以上は食べられないとおもったが、あっという間に2椀、腹の中へ入ってしまった。ちょっと類がない旨さだった。「尾の上」の次男の青年は、ひとりでワサビ畑をやっている。そのワサビを、ふんだんに使ってくれるのだから、ワサビ好きの私はすっかりよろこんでしまう。岩魚の骨酒をのみ終えたころに、利賀村の若い人たちが来て、麦屋節とこきりこを踊ってくれた。夜は豪雨となり、雷鳴がきこえた。
〔備考〕野原虎蔵さんは、井波町で大きな銘木店を経営されていたが、福野農学校の同級生である岩倉館長に相談されて利賀村への案内を引受けられたのであろう。利賀村は井波町から利賀川右岸の国道471号を進んでいけばある、人口1,000人の村である。尾の上旅館は戦前、野原市松氏が尾上地区に創業された旅館であった。食料品の販売や料理の仕出しも行い、大牧温泉とともに利賀村の二大旅館であったが、平成元年から坂上の「そばの郷温泉」の経営に乗り出し、閉館となった。なお『夜は豪雨となり、雷鳴がきこえた』という文には、野原さんや利賀の人達への感謝の念が込められている。
〔原文〕翌朝、雨が熄んで、山々の紅葉をたのしみながら、井波へ引き返したが、ついに空は晴れなかった。町役場も小学校も産業会館も、福祉センターも、みんな立派な近代建築で、「養老院もあるんでしょう?」私が尋ねると、岩倉さんが、「むろん、あります」「あと10年もしたら、入れてもらおうかな…」「歓迎します」と、いうことだった。(中略)小説が書けなくなったら、先祖の地へ来て骨を埋めるのもよいのではないか……などと、しきりにおもう。
〔備考〕養老院は現在もある老人ホーム楽寿荘のことで、昭和41年、広域市町村圏・12市町村によって井波町に建設された。なお池波と親しくされていた町役場の大和秀夫氏にかつて聞いたところ、池波は最後まで井波に住みたいと願っていたそうである。
〔原文〕午後は井波の伝統工芸である木彫の古いものから新しいものまで見せてもらった。さすがにすばらしい。私の父方の祖父は宮大工だが、母方の祖父も錺職人だった。そして孫の私は小説を書いているわけだか、どうも10年ほど前から、原稿紙にペンを走らせていても、何やら、2人の祖父が鑿や鑢を使っているような気分になってくるのだ。万年筆のペン先を洗っているときも、職人が道具の手入れをしているような気分になってくる。こういうのを「血……」というのだろうか。
〔備考〕昭和50年、井波彫刻(欄間、天神様、獅子頭、木彫額等)が通産大臣から伝統的工芸品に指定され、振興が図られることになった。池波は井波彫刻伝統産業会館でそれを見たのであろう。また池波も聞いた井波彫刻の歴史を若干述べれば、次の通りである。
①井波彫刻は、安永3年(1774)に再建された瑞泉寺本堂の彫刻に、京の彫刻師から学んだ井波大工4人が彫刻師として参加した事に始まる。
②明治10年頃、井波大工の12代・田村与八郎は彫刻を専業にする決断をし、5人の弟子を養成する。弟子・大島五作らは住居用の欄間彫刻を開発、販売する一方、岩倉理八らは京の寺院彫刻に習熟し、共に弟子の養成に努めた。その結果大正2年、富山市での共進会へ出品された欄間彫刻は、全国的に有名になり、また昭和8年、理八弟子・岩倉知正が棟梁となり、井波彫刻師18人が仕上げた築地本願寺の寺院彫刻は、最高の傑作と評価される。
③しかし昭和12年、日展理事・山崎覚太郎氏の指導を受け、井波彫刻は欄間だけではなく、衝立、置物、屏風、パネル等の制作にも力を入れ始め、戦後日展にそれらの作品を多数出品する様になる。池波の訪れた昭和56年までの特選・受賞者は、彫刻の部で西田秀、辻志郎、宮崎辰児、横山豊介等の8氏、美術工芸の部で横山白汀、横山一夢、横山玉抱、川原和夫等の10氏であった。また大賞・受賞者は、彫刻の部で横山豊介(菊花賞)、辻志郎(会員賞)、美術工芸の部で横山白汀(桂花賞)の3氏であった。
④他方井波では伝統的工芸品を作り続ける彫刻家も多く、その代表・野村清太郎氏が昭和42年度に始まった労働省の現代の名工に選ばれた。以後田村勝二、渓久平、南部保之、今井幸太郎、藤井藤吾、得地政治、加茂辰蔵氏が続き、56年までに8氏が名工となる。
〔原文〕この日の夜は、本通りの突当りにある瑞泉寺の横手の「東山荘」という宿へ泊った。小ぢんまりとした清潔な宿で、のびのびと眠ることができた。翌朝、小道をへだてた瑞泉寺の鐘の音で目ざめる。小雨がけむっていた。窓から顔を出していると、通りかかった小学生の男の子と目が合う。すると、その子は帽子をとって挨拶をするではないか。見も知らぬ旅人の私にである。一昨日の老婦人の言葉が、いまさらながら、おもい起された。
〔備考〕私も小学生の頃、瑞泉寺の鐘を朝夕聞いていた。この鐘は戦時中に供出されたが、昭和22年、瑞泉寺婦人部(尼講)により復元された。直径は通常の倍の4尺、重さは800貫の大梵鐘の、心の落ち着く音色を今も覚えている。(続く)