第42回『人情蔑視の時代』
昭和51年の「オール読物」10月号で、池波正太郎はエッセイストの
この対談の中で江國は、鬼平犯科帳の全編にちりばめられている鬼平の心というか、池波さんの書きたいことは次のことではないかと、第3話の「血頭の丹兵衛」(文春文庫1巻)の地の文を引用する。
そして江國はこの文章の「さりげなく」という所がよい、これは世の中が努力してやっていたのではなく、世の中がいかによかったかということではないかと述べた。
これに対し池波は、僕らが子供の頃の感じでも、そうだったから、江戸時代はもっとよかったと思う、子母沢寛さんがよく「江戸時代は実に住みよかったでしょうね」といっていたと応じでいる。
江國が鬼平犯科帳で平蔵が非常に厳しい上役として、深夜でも今からどこそこへ行けという、その時に必ず「夜ふけに気の毒じゃな」という、すると例えば五郎蔵が「とんでもないことでございます」という、ここに1つの通じ合うものがあるが、今はそれがないのではないかという。
池波はその通りだと応じ、人情というとすぐ古臭いといわれる時代だが、近頃アメリカの若い監督や俳優が作っている映画はやはり人情である、最も先鋭な映画を作る人達がそういうものを作っていることは、やはり考えてみるべきことだといっている。
また対談の後半では、江國が鬼平犯科帳に出てくる江戸の地理の描写に、親切さや細かさがあって、舌を巻くと述べる。
これに対し池波は、当時の江戸を書く時に、昔の資料を頼りにするだけでは江戸が出てこない、僕の場合、かろうじて子供の頃から残っていた東京の習俗、習慣、風景を、江戸時代と違うかも知れないが、それが自分の江戸なんだという信念を持って書いていると答えた。
次に司馬遼太郎は、池波と同じ大正12年生まれで、昭和35年に池波と一緒に直木賞(司馬は34年下期の受賞だか、受賞式は翌年)を受賞した仲だったので、平成2年の「小説新潮」6月号に「若いころの池波さん」と題し、追悼文を寄せている。
その中で鬼平犯科帳に関する部分を引用すると、
江戸っ子という精神的類型は、自分自身できまりをつくってその中で窮屈そうに生きている人柄のように思えている。この場合、こまるのは巷の様子が変わることである。
と前置きし、次の様に書いている。
「いやですねえ」池波さんは心が
池波さんは、適応性のとぼしい小動物のように自分から消えてしまいたいと思っている様子で、以下は重要なことだが、この人はそのころから変わらざる町としての江戸を書きはじめたのである。
この展開がはじまるのは、昭和43年開始の「鬼平犯科帳」からである。池波さんは江戸の街路や、裏通りや屋敷町、あるいは
かれらは池波さんが創った不変の文明のなかの市民たちなのだが、だれよりもさきに住んだのは池波さん自身だった。「京大阪にうつりたい」とまでいっていたこともあったが、このおかけで東京の変容をなげいたりする必要がなくなった。
このため、池波さんは大阪へ来なくなったが、べつに遠くなったわけでなく、私もまた「鬼平犯科帳」以後の池波作品の住人になった。いずれも不朽のものである。
最後に国際日本文化研究センター准教授で歴史家の磯田
江戸時代260年は、この国の素地をかたちづくった時代です。歴史家として確言しますが、落した財布が世界で一番もどってくる日本、自動販売機が盗まれない日本、識字率が高い日本人、これらは明らかに「徳川の平和」のなかでできあがったものです。
しかし磯田氏によれば、江戸時代の初頭は領主と領主の間の戦争がなくなっただけで、領主と領民の間は戦国時代と変わらないままであった。そこで寛永14年(1637)に島原の乱が起きる。結果は一揆勢は37,000人が全滅し、幕府側も12,000人が死傷したといわれる。また荒廃したこの地方を復旧するために、幕府等は膨大なコストを支払うこととなった。
そこで5代将軍・綱吉は天和3年(1683)、武家諸法度を改正し、また貞亨4年(1687)から生類憐み令の制定を始めるが、その部分を磯田氏の本から引用する。
綱吉は武家諸法度の第1条「文武弓馬の道、
さらに綱吉は、武士だけでなく、庶民にも新たな価値観を浸透させました。それが生類憐み令です。具体的な条文は「犬ばかりに限らず、
しかもこれは一片の法律ではなく、実際には老人を
その結果、命を尊重するという価値観が社会に根付いていきました。綱吉は悪い
以上であるが、古来、人生の難しさは常に反復する人情のたのみなき点にあるといわれる。それだけに鬼平犯科帳は人々を引きつけ、平成の御代に28年もの永きにわたり、放映されたのであると思われる。(続く)