第9回『兇剣』
『鬼平犯科帳』を読むと、登場人物が食事をする場面が実に多い。しかしそのことによって、季節も人間も生き生きと描かれているように思う。
例をあげると、まずは『兇剣』(文春文庫3巻)の鯉料理の場面である。
いけすからひきあげたばかりの鯉を洗いにした、その鯉のうす紅色の、ひきしまったそぎ身が平蔵の歯へ冷たくしみわたった。
「むむ……」
あまりのうまさに長谷川平蔵は、おもわず舌つづみをうち、
「これは、よい」(以下略)
この鯉は春の鯉だが、若葉にうもれた京都・愛宕山の茶屋「平野や」の腰かけで、ひやひやとした山気を感じながらいただくと、まことにおいしい。休暇中であるし、鎮火の神様への参拝も済ませたし、鬼平は珍しく酔っぱらう。
次は、第3回で紹介した『明神の次郎吉』(8巻)のしゃも鍋の場面である。
新鮮な臓物を初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに出汁で煮ながら食べる。熱いのをふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった。
「うう……こいつはどうも、たまらなくもったいない」(以下略)
蛍の飛ぶ夜に、本所の「五鉄」へ招かれた盗賊の明神は、自分の善行が侍に感謝され、また信州にはない美味な料理を食べて最高の気分になる。なお、「五鉄」は鬼平が青春時代入りびたっていた店で、長官就任後も改方の連絡所等としてひんぱんに使われている。
最後は『火つけ船頭』(16巻)で、鬼平の妻女・久栄が鴨料理を出す場面である。
鴨の肉を醤油と酒を合わせたつけ汁へ漬けておき、これを網焼きにして出すのは、久栄が得意のものだ。(略)それと鴨の脂身を細く細く切って千住葱と合わせた熱い吸物が先ず出た。
「久栄。わしにこのように精をつけて何とする?」
「まあ……」(以下略)
激務の夫のために工夫をこらし、晩秋に鴨料理を出した久栄は、顔を赤らめる。そして「この人は絶対自分が守ろう」と彼女は心に誓うのであった。
以上であるが、池波は「死ぬために食うのだから、念を入れなくてはならないのである。なるべくうまく死にたいからこそ、日々口に入れるものへ念をかけるのである」(『男のリズム』角川文庫)と、毎日の食事を大切にした人である。このため『銀座日記』(新潮文庫)を読んでも、いつどこで何を食べたかが楽しそうに記されている。
しかし、平成2年1月25日の67歳の誕生日が過ぎると、『銀座日記』では、食欲がない、部屋で何度も転ぶ、体重が減るという記述が現れ、2月21日の「今いちばん食べたいものを考えてもおもい浮ばない」という文章で『銀座日記』は終わる。急性白血病であった。
4月29日、病院で銀座「いまむら」の心尽くしの金目鯛の煮つけを少し食べたのが、最後の食事となった。