第4回『啞の十蔵』

 池波は昭和43年のオール読物1月号に(おしの十蔵――「鬼平犯科帳」第1話)というタイトルで、小説『鬼平犯科帳』の連載を始めた。

 火付盗賊改め方は凶盗・野槌の弥平の逮捕に躍起になっていたが、越中生まれの元盗賊・岩五郎が、浅草・新鳥越の小間物屋の亭主・助次郎を探ってみてはと佐嶋・与力に密告した。佐嶋の命令で同心・小野十蔵が見張っていると、女の泣声がした。中に入ると男が死んでいる。尋ねると女はおふじといい、助次郎が別れ話を出して身重の自分に乱暴するので、友人の梅吉がくるまでと寝たところを細引を使ったという。

 聞けば彼女は藤沢の孤児で、つらい小間物問屋奉公や結婚生活をしてきたし、連行すれば必ず処罰される。

 そこで十蔵は助次郎を床下に埋め、佐嶋・与力には助次郎夫婦は消えたと報告し、無事出産をさせるため、裕福な妻の実家よりお金を借り、押上村の農家の小屋に住まわせた。そこへ訪ねる内に図らずも情を交わしてしまったが、十蔵は妻にさげすまれ、会話のない生活から感じられないものを感じ出すのであった。

 そうしておふじが丈夫な女児を出産した頃、火付盗賊改め方長官が堀帯刀から四百石の旗本で御先手組弓頭の長谷川平蔵宣以のぶために交替し、これに伴い佐嶋・与力も交替したが、部下の十蔵を残していった。

 その直後、おふじは十蔵に、昨日柳島の妙見堂に参詣し、蕎麦屋にいた時、向いの茶屋から夫の友人・梅吉が連れの男に明後日またここでといいながら出てきたと重大な情報をくれる。

 すぐ長官の指示を仰ぐとすべてまかされてので、十蔵が指揮を取り、当日梅吉を惜しくも捕り逃したが、連れの男の逮捕に成功する。

 その夜役宅で十蔵はこの男を責めようとした時、門番が持ってきた手紙で梅吉に神田・加賀ッ原へ呼び出された。暗闇の中から梅吉は新鳥越以降の二人の秘密を知っており、男を釈放しないとおふじを殺す等という。すぐ十蔵は押上村へ駆けつけると、赤子は農家が偶然預かっており、無事であった。

 一方長官もすぐ門番に様子を聞き、自ら男を厳しく責め、王子の料理屋・乳熊屋の主人が野槌と白状させ、翌朝乳熊屋を囲み、鉄鞭で野槌らを叩き伏せ、逮捕してしまう。同時に十蔵の家へ同心を急派したが、彼の自決を防げえなかった。しかし長官はおふじの遺児を奥方と育て始めるのであった。

 この事件以来、平蔵の声名は一時に上がり、盗賊達は「鬼の平蔵」とか「鬼平」と呼んで恐れたという。

 ところで長谷川平蔵は実在の人物である。『国史大辞典』等によれば、平蔵は延享2年(1745)、旗本・長谷川宣雄の庶子に生まれ、23歳で将軍・家治に拝謁、京都町奉行だった父の跡目を28歳で相続し、小普請入り、幾つかの役を経て天明6年(1786)先手組弓頭となった。7年(1787)5月、打ち続く天明の大飢饉のため江戸中の米屋・富商が打ちこわされ、軍隊である先手組が出動したが、暴徒鎮圧の手際よさに平蔵の名は知れ渡る。

 このため9月から特別警察である火付盗賊改めを兼務するが、平蔵は若年の頃本所で遊び、下情に通じていたので、火付・盗賊の逮捕や博奕の取締りに目覚ましい実績を上げる。

 また寛政2年(1790)から2年間、人足寄場取扱いも兼務し、自分の建議した無宿人等の職業訓練施設を石川島に建設し、社会復帰を促進した。寛政7年(1795)5月、病気で火付盗賊改め御免となった後51歳で亡くなり、四谷・戒行寺に葬られた。

 なお池波は、このような平蔵を小説にしたいと思い続けてきた。そしてオール読物の連載を機に、一作ずつ連作の形式で彼の人生を盗賊達や犯罪事件を通して描き始めた。しかし謎ときの「捕物帳」にしたくないので、長崎奉行所の刑事判決の記録を指す言葉「犯科帳」をその代りに使っている(『鬼平犯科帳』第3巻の「あとがきに代えて」等)。