第2回『秘密の場所』
随筆『越中・井波』(『新私の歳月』講談社文庫)等によると、池波正太郎が父方の先祖は天保の頃江戸へ出た宮大工と何かに書いたところ、井波町歴史民俗資料館長・岩倉節郎が海軍同士でもあり、特に熱心に誘ったので、昭和56年10月、58歳にして初めて井波を訪れた。
岩倉の案内で、先祖の縁つづきの池波宗七が明治30年まで住んだ家跡を訪れたり、先祖が改築に加わったであろう瑞泉寺の大伽藍を見たりしている内に、池波は次第に井波が自分の故郷に思えてくるのであった。
そんな池波は昭和61年、故郷の井波を登場させた小説『秘密』(週刊文春2月6日号~9月11日号。文春文庫)を発表する。
京の町医者の息子・片桐宗春は篠山藩士の養子となったが、家老の長男を正式の果し合いで斬ってしまった。ところが逆に次男に仇討をされる身となり、今は父の弟子・滑川勝庵を頼って千住に隠れ住む。宗春は医術の心得もあるので、勝庵に袋物屋・吉野屋の代診をさせられたが、大変気に入られる。しかし偶然ながら昔の婚約者が吉野屋の後妻に入ったので、代診をやめ、新たな百姓家に隠れ住んでいると、料亭大むらの女中おたみと再会し、二人は結ばれる。
明るくなった宗春は吉野屋の娘が病気と聞くと、後妻を気にせず、進んで病気を直す。また父が江戸にいた時、最愛の妻を亡くし、やむなく2歳の長男を千住の医者に養子に出したことも分かった。次男の自分を養子に出した父の気持ちもわかった宗春は、かつて父の弟子・久志本長順を頼って井波に隠れ住んだ時、長順が、
何、此処までは追っても来ないし、来ても我らが必ずおぬしを守り通してみせる。
どうじゃ、おもいきってこの井波に住みついては……わしは妻子のない老人ゆえ、おぬしがわしの跡をつぎ、井波の人びとの病気を診てやってくれれば、何よりうれしい。よく考えてみてくれぬか。
といってくれたのを想い出し、井波で医者となって、おたみと生きていくことを決意する。
そして旅立ち前に医者の兄に会いにいくと、家老の次男たちが兄を襲っており、斬った後に人違いと気付く。彼らはもう仇討ちをやめるかもしれないが、二人は急ぎ秘密の場所井波へ旅立つ。
ところで池波は上の井波の医者・久志本長順の発言の前に次のような「越中・井波観」を書いている。
① 越中砺波郡・井波は、五箇山から飛騨へつづく利賀の山地を背負った平野にあり、古いむかしの南北朝のころ、後小松天皇の勅許を得て創設された瑞泉寺という大刹がある。
② 北陸の地は「真宗王国」である。戦国のころの、宗徒たちが法灯を守るための結束は非常なもので、その激烈な抵抗に、戦国武将たちは大いに悩まされたという。
③ 大刹・瑞泉寺の大伽藍のすべてを埋めつくした見事な木彫も、井波の工人の手によるものだそうな。
④ 道を歩いて行くと、軒をつらねた木彫り師の家から、のみの音が絶えず聞こえてくる。人の情がこまやかで……井波はそのようなよいところなのです。
⑤ ただ冬になると、風がすさまじい。厚い戸が外から吹きつけてくる風に弓なりになって、いまにも破れるかとおもうほどです。
以上の「越中・井波観」は随筆『越中・井波』に書かれたものと基本的に同じであるが、池波はそのうちでも2番目を強く意識してこの小説を書いたことが、久志本の言葉から読み取れると思う。
また池波はこの後平成元年、鬼平犯科帳の最終作・132話『ふたり五郎蔵』(オール読物7月臨時増刊号。文春文庫24巻)を発表し、越中・井波生まれの髪結い・五郎蔵を登場させるが、『秘密』はこの『ふたり五郎蔵』を書くために、あらかじめ書かれた姉妹作ではないかと思われる。