第48回「越中・井波―わが先祖の地(壱)」
鬼平犯科帳の135話の内から池波が自選した5話を紹介したが、池波は自ら書いた膨大な随筆についても、113話を選び、昭和63年に「池波正太郎自選随筆集」上巻・下巻を朝日新聞社から刊行した(朝日文庫の「私の生まれた日」は上巻、「私の仕事」は下巻である)。これらの随筆はいずれも素晴しいが、私が特に注目するのは、上巻にある、
○「越中・
○「セトル・ジャンの酒場」(初出、1年の風景、昭和57年9月朝日新聞社)
という2つの随筆である。
最初の随筆は、昭和56年10月、天保の頃まで先祖が住んでいた富山県井波町(現南砺市)を池波が初めて訪ねた時の話である。池波は宮大工だった先祖も改築に従事した、600年の歴史を持つ瑞泉寺の大伽藍を見たり、町の人々の厚い人情に触れたりしている内に、井波が本当の故郷と思えてくるのであった。次の随筆は、昭和52年に初めて渡仏した池波が、フランス語で「忘れられた
以上の様な忘れられた佳き日本やフランスを探す旅は、鬼平犯科帳を書く心と共通するものがある。今回は「越中・井波」の要所の原文と備考を示し、それらを感じて頂きたいと思う。
〔原文〕私の父方の先祖は越中(富山県)井波の宮大工だったそうな。こんなことを何かの原稿に書いたのを井波の人達が読んでくれ、中でも歴史民俗資料館の館長をしておられる岩倉さんが、しきりにさそってくれたので、秋も深まった或日、私は京都から越中に向った。(中略)高岡へ着くと、岩倉さんが出迎えてくれた。北陸へは数えきれぬほどに出かけた私だが、井波は
〔備考〕池波が富山県井波町を訪れたのは、昭和56年10月25日、26日のことであった。また館長は岩倉節郎といい、昭和18年に県立福野農学校を卒業し、横須賀の海軍航空技術
〔原文〕私の先祖が井波をはなれ、江戸へ移ったのは天保のことだときいている。父の姉の
〔備考〕「井波町史」によれば、天保年間(1630―1643)においては、2年、4年、7年、9年が2年毎の大凶作となり、また10年、11年、12年、13年が連続して不作であった。特に4年と7年は、米価騰貴、米穀欠乏等が甚だしく、多くの死者が出たとされる。このため井波地区の離村者(走り人)も10年の76人を最高に天保年間で計249人にも昇った。池波家の先祖の江戸移住はどんな事情で行われたか分らないが、凶作と不作が打ち続く
〔原文〕小雨にけむる、人口1万の井波町。その本通りの両側に木彫師の店がたちならぶ。その一角を指して、岩倉さんがいった。「そこが、御先祖と縁つづきの
〔備考〕明治5年の井波町家並調べを見ると、
〔原文〕ほとんど自動車も通らぬ、しずかな本通りに、コーヒーをのませる店は1軒しかない。(中略)その近くに、浅草生まれの老婦人が住んでいる。「井波は、いかがです」私が尋ねると、「ほんとうに、よいところでございますよ。こんな人情の深いところはございません。朝なんか、道を通る小学生が、私などにも朝のあいさつをしてくれますの」老婦人の言葉が、私にはうれしかった。何だか、自分の故郷をほめられたような気分になってくるのが、ふしぎなほどだった。「ただ、風が……雪が吹きつけくる。その風の強さ、恐しさはたまりません。厚い戸が弓なりになってしまって、いまも破れるかとおもうほどです」このあたりの風の凄まじさを、いつであったか、何かの本で読んだことがあった。
〔備考〕老婦人は浅草の200年続く老舗・駒形どぜうの子女として生まれたが、縁あって井波町の旧家・久保家へ嫁がれた。御夫君は東大を出て故郷に帰り、教育界に入り、県の教育委員長まで務められた人であったが、夫人もまた郷里のため色々な活動をされた人であった。そんな夫人が、井波を、こんな人情の深いところはないと思われていることを知った時には、感動をしたが、今もこの随筆を読むたびに感動を新たにしている。(続く)